
レコンキスタというと、スペインやポルトガルを舞台にしたキリスト教とイスラームの戦いとして知られていますが、実はその背景にはキリスト教世界の東西分裂(大シスマ/東西教会分裂)が密接に関わっていました。1054年にカトリック教会(西方教会)と正教会(東方教会)が分裂したこの出来事が、どうレコンキスタに影響を与えたのか――ここを詳しく見ていきましょう。
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まずは、この東西分裂がどんな出来事だったのかを簡単に押さえておきましょう。
1054年、ローマ教皇を中心とするカトリック教会(西方教会)と、ビザンツ皇帝とコンスタンティノープル総主教を中心とする正教会(東方教会)が、教義や権威をめぐって対立し、ついに相互破門という決裂を迎えました。これによって、キリスト教世界は西のカトリック、東の正教会というふたつに分かれたのです。
この分裂によって、キリスト教は単一の普遍的な宗教という性格から、西と東で異なる道を歩み始め、信仰だけでなく、政治・軍事・文化でも別々の世界を築いていくことになります。
では、この東西分裂がイベリア半島の戦いにどう関わっていたのでしょうか?
東西分裂後、西ヨーロッパのカトリック諸国は、東方の正教会とは別の独自のアイデンティティを持つようになりました。これにより、カトリック教会はイスラーム勢力との戦い(レコンキスタ)を、まさに「西のキリスト教世界」を守るための聖戦と位置づけ、強く支援するようになります。つまり、東西分裂によって西ヨーロッパのカトリック世界が一層まとまったことが、レコンキスタを後押ししたわけです。
もしキリスト教世界が分裂していなければ、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)もレコンキスタに加勢する可能性があったかもしれません。しかし東西分裂により、イベリア半島の戦いに東方正教会の支援は及びませんでした。したがって、レコンキスタはカトリック諸国だけによる戦いとして進んでいったのです。
また、東西分裂は十字軍運動の形成にも影響を与え、それがレコンキスタにも波及しました。
東西分裂後、カトリック教会は「西のキリスト教世界を守る」使命を一層強調し、1095年の第1回十字軍のような聖戦運動を展開します。この「聖戦」思想がそのままイベリア半島のイスラーム勢力との戦い=レコンキスタに応用され、カトリック教会はレコンキスタを十字軍と同じく宗教的な大義を持つ戦いとして支援するようになります。
十字軍同様、レコンキスタに参加する者にも罪の赦し(免罪符)が与えられました。これにより、戦いに参加する騎士たちは「信仰の戦士」としての名誉を得られ、宗教的な意味合いが強化されました。これもまた、東西分裂によってカトリック教会が自らの権威を再定義した結果とも言えます。
レコンキスタは、東方世界と切り離されたカトリック世界の独自の発展を象徴する戦いでもありました。
レコンキスタを通じて誕生したスペイン王国やポルトガル王国は、ローマ教皇と密接に結びつきつつも、自ら独自の王権とカトリック信仰を築くようになります。つまり、東方正教会と分かれたことで、西方世界は独自の宗教的・政治的空間を作り上げていったのです。
こうして「カトリック=イスラームと戦う信仰共同体」というイメージが定着し、スペインやポルトガルはレコンキスタの精神を受け継いで、後にアメリカ大陸への征服(コンキスタ)やアジア・アフリカへの布教へと進んでいくのです。
東西分裂によって、カトリック世界は東方の正教会に頼らず独自の戦いを進めることになり、その結果、レコンキスタは西ヨーロッパの団結とカトリック的秩序を守るための戦いとして強化されました。そしてこの過程で、十字軍思想と結びつき、異教徒を排除することによる宗教的純粋さが強調されていったのです。
このように、レコンキスタの背景にはキリスト教世界の東西分裂という大きな歴史の流れが関わっていたのですね。そして、この分裂があったからこそ、カトリック教会とその支持を受けた西ヨーロッパ諸国が独自の宗教的戦いとしてレコンキスタを遂行することができたわけです。