レコンキスタってどこの国の出来事なの?

レコンキスタという歴史的な出来事は、基本的にイベリア半島、つまり現在のスペインとポルトガルを中心に展開された出来事です。でも「どこの国の?」と聞かれると、実はすごくおもしろい話になるんです。なぜなら、レコンキスタが始まった時期と終わる時期では国の姿や名前も全然違っているからです。では、具体的にどの国々が関わっていたのか、わかりやすく整理してみましょう。

 

 

レコンキスタの始まりと「国」という概念

まず、レコンキスタが始まった8世紀頃には、今のようなスペインポルトガルという国はまだ存在していませんでした。

 

アストゥリアス王国(718年頃〜)

レコンキスタのスタートを切ったのは、北部の山岳地帯に成立したアストゥリアス王国です。イスラーム勢力に抵抗する拠点として、ペラーヨ(718年頃〜737年)が建てたこの小さな王国が、のちの大きな動きの始まりでした。

 

西ゴート王国の「後継」意識

アストゥリアス王国の人々は、711年に滅んだ西ゴート王国の「再興」を掲げて戦っていたので、レコンキスタはイスラーム勢力によって奪われた西ゴート王国の復活運動という側面もあったのです。

 

レコンキスタに参加したキリスト教国の一覧

レコンキスタが進む中で、さまざまなキリスト教王国が誕生し、それぞれがイスラーム勢力との戦いに参加していきます。

 

アストゥリアス王国

レコンキスタの初期拠点となった王国。のちにレオン王国へと発展します。

 

レオン王国

アストゥリアス王国から分裂・発展したレオン王国は、10世紀以降、レコンキスタの中心勢力となりました。

 

カスティーリャ王国

レオン王国から独立したカスティーリャ王国も、レコンキスタの重要な担い手。後にスペイン王国の中心となる国ですね。

 

アラゴン王国

北東部のアラゴン王国は、東側からレコンキスタを推し進め、地中海沿岸地域を奪還しました。のちにカタルーニャ地方も支配します。

 

ナバラ王国

ピレネー山脈近くにあったナバラ王国も、独自にレコンキスタを進めた一国です。ただし、規模は小さめでした。

 

ポルトガル王国

西部ではポルトガル王国が12世紀に独立し、自らのレコンキスタを展開。1249年のファロ陥落で、イベリア半島西部からイスラーム勢力を追放しています。

 

最終的にレコンキスタを完遂した国

最終的に1492年、ナスル朝グラナダ王国を滅ぼしてレコンキスタを完了させたのは、カスティーリャとアラゴンが結びついて生まれたスペイン王国です。

 

カトリック両王のスペイン

イザベル1世(カスティーリャ女王)フェルナンド2世(アラゴン王)の結婚によって、カスティーリャとアラゴンが事実上統一され、「カトリック両王」として知られるようになりました。このスペイン王国がレコンキスタの総仕上げをしたわけです。

 

「レコンキスタ=スペインの出来事」でいいの?

レコンキスタは結果的にスペイン誕生につながる出来事ですが、厳密には当初から「スペインの戦い」だったわけではありません。

 

複数王国の連携と競争

実際には、さまざまなキリスト教王国が互いに協力しつつ、時に争い合いながら行った戦いだったのです。だから、単に「スペインの歴史」とだけ見るのではなく、イベリア半島全体の複雑な動きとして理解するのが正しいのですね。

 

まとめ:レコンキスタに関わった「国」

まとめると、レコンキスタは

  • 最初はアストゥリアス王国に始まり
  • 途中でレオン、カスティーリャ、アラゴン、ナバラ、ポルトガルなどが参加し
  • 最終的にカスティーリャ+アラゴン連合(スペイン王国)が完遂した

という流れなのです。だから「レコンキスタ=スペインの出来事」と言うのは最終的には正しいけれど、歴史の途中ではもっと多様な国々が関わっていた、というのが本当のところですね。

 

このように、レコンキスタは今の「スペイン」や「ポルトガル」だけの話じゃなく、イベリア半島に生きたさまざまな人々と国々の物語だったのです。だから、いろんな国の目線から見ると、また違うレコンキスタの姿が見えてくるのが面白いですね!