
レコンキスタという歴史的な出来事は、基本的にイベリア半島、つまり現在のスペインとポルトガルを中心に展開された出来事です。でも「どこの国の?」と聞かれると、実はすごくおもしろい話になるんです。なぜなら、レコンキスタが始まった時期と終わる時期では国の姿や名前も全然違っているからです。では、具体的にどの国々が関わっていたのか、わかりやすく整理してみましょう。
|
|
まず、レコンキスタが始まった8世紀頃には、今のようなスペインやポルトガルという国はまだ存在していませんでした。
レコンキスタのスタートを切ったのは、北部の山岳地帯に成立したアストゥリアス王国です。イスラーム勢力に抵抗する拠点として、ペラーヨ(718年頃〜737年)が建てたこの小さな王国が、のちの大きな動きの始まりでした。
アストゥリアス王国の人々は、711年に滅んだ西ゴート王国の「再興」を掲げて戦っていたので、レコンキスタはイスラーム勢力によって奪われた西ゴート王国の復活運動という側面もあったのです。
レコンキスタが進む中で、さまざまなキリスト教王国が誕生し、それぞれがイスラーム勢力との戦いに参加していきます。
レコンキスタの初期拠点となった王国。のちにレオン王国へと発展します。
アストゥリアス王国から分裂・発展したレオン王国は、10世紀以降、レコンキスタの中心勢力となりました。
レオン王国から独立したカスティーリャ王国も、レコンキスタの重要な担い手。後にスペイン王国の中心となる国ですね。
北東部のアラゴン王国は、東側からレコンキスタを推し進め、地中海沿岸地域を奪還しました。のちにカタルーニャ地方も支配します。
ピレネー山脈近くにあったナバラ王国も、独自にレコンキスタを進めた一国です。ただし、規模は小さめでした。
西部ではポルトガル王国が12世紀に独立し、自らのレコンキスタを展開。1249年のファロ陥落で、イベリア半島西部からイスラーム勢力を追放しています。
最終的に1492年、ナスル朝グラナダ王国を滅ぼしてレコンキスタを完了させたのは、カスティーリャとアラゴンが結びついて生まれたスペイン王国です。
イザベル1世(カスティーリャ女王)とフェルナンド2世(アラゴン王)の結婚によって、カスティーリャとアラゴンが事実上統一され、「カトリック両王」として知られるようになりました。このスペイン王国がレコンキスタの総仕上げをしたわけです。
レコンキスタは結果的にスペイン誕生につながる出来事ですが、厳密には当初から「スペインの戦い」だったわけではありません。
実際には、さまざまなキリスト教王国が互いに協力しつつ、時に争い合いながら行った戦いだったのです。だから、単に「スペインの歴史」とだけ見るのではなく、イベリア半島全体の複雑な動きとして理解するのが正しいのですね。
まとめると、レコンキスタは
という流れなのです。だから「レコンキスタ=スペインの出来事」と言うのは最終的には正しいけれど、歴史の途中ではもっと多様な国々が関わっていた、というのが本当のところですね。
このように、レコンキスタは今の「スペイン」や「ポルトガル」だけの話じゃなく、イベリア半島に生きたさまざまな人々と国々の物語だったのです。だから、いろんな国の目線から見ると、また違うレコンキスタの姿が見えてくるのが面白いですね!