
レコンキスタという長い戦いの時代を静かに見つめ続けた建物が、スペイン・コルドバにあるメスキータ(コルドバのモスク=大聖堂)です。この建物はイスラームとキリスト教、二つの宗教が交差し、共存し、時にぶつかり合った歴史そのものを体現しているといえるでしょう。今回は、このメスキータの歴史と目的についてわかりやすくご紹介します。
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もともとメスキータは、イスラーム教徒がコルドバを支配していた時代に大モスクとして建てられたものでした。
最初にこのモスクを建てたのはウマイヤ朝から逃れてイベリア半島に王国を築いたアブド・アッラフマーン1世(731–788)です。彼はコルドバをアル=アンダルス(イスラーム支配地域)の中心とし、その象徴としてモスクを建設しました。このモスクは礼拝の場であり、政治・宗教の権威を示すための重要な建物でもあったのです。
その後も歴代の支配者たち、特にアブド・アッラフマーン2世(792–852)、アル=ハカム2世(915–976)、そしてアル=マンスール(938–1002)がこのモスクを拡張し続け、10世紀にはイスラーム世界有数の大規模モスクとなりました。
モスクとしてのメスキータは単なる礼拝所ではなく、イスラーム法学、哲学、科学などの学びの場でもあり、当時のコルドバがヨーロッパ最大の都市の一つとして栄える象徴でもあったのです。
しかし、レコンキスタによってキリスト教徒がコルドバを奪還したことで、メスキータの運命は大きく変わります。
1236年、カスティーリャ王フェルナンド3世(1199–1252)がコルドバを占領すると、モスクはカトリックの大聖堂へと転用されました。つまり、メスキータはイスラームのモスクからキリスト教の礼拝堂へと姿を変えることになったのです。
驚くべきことに、イスラーム時代の美しいモスク建築は完全には破壊されず、そのまま活用されました。巨大なアーチと柱が立ち並ぶ空間に、キリスト教の祭壇や礼拝堂が新たに設けられ、二つの宗教が一つの建物の中で共存するという独特な様式が生まれたのです。
この建物の持つ意味は、時代ごとに大きく変化していきました。
モスク時代のメスキータは、単なる宗教施設ではなく王の権威を示す場でした。コルドバのカリフたちがこの地で礼拝すること自体が、彼らの支配を内外に示す行為だったのです。そして、知識人や学者たちが集まる場所として学問と宗教の拠点でもありました。
キリスト教徒にとっては、かつてのモスクを大聖堂とすることで、イスラームに対する勝利の象徴となりました。とりわけ、レコンキスタを正当化するためにも「奪還した聖地」としての意味が与えられたのです。さらに、コルドバのカテドラル(司教座)として現在も重要な役割を果たし続けています。
メスキータが今日まで人々を驚かせ続ける理由の一つが、その建築の美しさと複雑さにあります。
内部には856本の柱とそれをつなぐ二重アーチが並び、赤白のストライプ模様が連なる独特の景観を作り出しています。このデザインはイスラーム建築特有のもので、訪れる人を幻想的な世界へと引き込みます。
イスラーム時代の名残としてミフラーブ(聖なる祈りの方向を示す壁龕)も保存され、精緻なモザイク装飾が今も残されています。
一方で、中心部分にはルネサンス様式の聖堂が挿入され、キリスト教の礼拝のための祭壇や聖歌隊席が設けられました。この異なる様式が同居する独特の空間こそ、メスキータの最大の魅力なのです。
メスキータは、
という歴史を生き抜いてきた建物です。その姿は、単なる建築物を超えて、イベリア半島の複雑な歴史と宗教が交錯した「生きた証拠」ともいえるでしょう。
このように、メスキータは「破壊」されることなく、時代ごとの支配者たちによって新たな意味が付け加えられてきたんですね。だからこそ、今も残るその姿は、レコンキスタの時代だけでなく、イベリア半島の長い歴史そのものを静かに物語っているんですね。