
レコンキスタは、711年から1492年まで続いた約800年にわたる長い歴史です。この間にさまざまな戦いと政治的な動きが重なり合い、イベリア半島の宗教・政治の勢力図が大きく塗り替えられていきました。ここでは、レコンキスタの開始から終了までのおおまかな流れを、時代ごとに分かりやすく整理してみましょう。
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まずは、レコンキスタがどのように始まったのかを見ていきます。
711年、ウマイヤ朝の軍勢がジブラルタル海峡を渡って西ゴート王国に侵攻し、イベリア半島のほとんどを制圧しました。この侵攻によって西ゴート王国は滅亡し、イベリア半島はアル=アンダルス(イスラーム支配地域)となりました。
イスラーム勢力に追われたキリスト教徒たちは、北部の山岳地帯で抵抗を開始します。718年ごろのコバドンガの戦いでペラーヨ率いるキリスト教軍が勝利し、これがレコンキスタの象徴的な始まりとされています。
この時期、レコンキスタはゆっくりと進みつつも、イスラーム勢力も強力に抵抗していました。
北部のアストゥリアス王国がレオンへと移動し、レオン王国として発展。キリスト教勢力の拠点が広がりました。
一方で、後ウマイヤ朝がコルドバを首都とする強力な王朝を築き、政治・経済・文化の面でイベリア半島をリードしました。このため、キリスト教勢力の南下は一時的に停滞しました。
11世紀以降、レコンキスタは本格的に進展し始めます。
イスラーム勢力がタイファ諸国と呼ばれる小国に分裂し、キリスト教勢力に対して防御が弱まります。
カスティーリャ王アルフォンソ6世がトレドを奪還し、キリスト教勢力の大きな勝利となりました。これによりレコンキスタは大きく進展します。
タイファ諸国を支援するためにムラービト朝(北アフリカのベルベル人勢力)がイベリア半島に介入。一時的にキリスト教勢力の進撃が止まりますが、長期的にはレコンキスタを阻止することはできませんでした。
キリスト教連合軍(カスティーリャ、アラゴン、ナバラ)がムワッヒド朝軍を撃破。これがレコンキスタの決定的な転換点となり、以後キリスト教勢力が南部へと急速に進撃するようになります。
13世紀以降、キリスト教勢力はほぼイベリア半島全域を支配するようになり、レコンキスタは終盤に入りました。
カスティーリャ王フェルナンド3世が1236年にコルドバ、1248年にセビリアを攻略。イスラーム勢力の主要都市が次々と陥落しました。
唯一残ったナスル朝グラナダ王国は、カスティーリャに朝貢することで存続を許されましたが、次第にカスティーリャ王国の影響下に置かれるようになります。
最終的に、スペイン王国はレコンキスタを完了させました。
カトリック両王(イサベル1世とフェルナンド2世)の結婚によってスペイン王国が成立し、キリスト教勢力が一つにまとまりました。
1492年、グラナダ陥落によってイベリア半島からイスラーム勢力が一掃され、レコンキスタが完了。これがヨーロッパ史の一大転換点となりました。
同年、コロンブスの新大陸到達によってスペインは大航海時代へ突入し、レコンキスタの延長線上で世界規模の植民地時代が始まります。
このように、レコンキスタはイスラーム勢力の侵攻に対する防衛から始まり、時代ごとに停滞と進展を繰り返しながら、最終的にはスペイン王国の誕生とともに終結しました。そしてその後は、植民地時代や大航海時代といった新たな歴史の幕開けへとつながっていったのです。