
「レコンキスタ」——この言葉、なんだかかっこよく響きますよね。でも、いざ説明しようとすると「イスラム教徒との戦い?」くらいしか思い浮かばない人も多いかもしれません。実はこのレコンキスタ、スペインやポルトガルの国づくりに深く関わる、ものすごく長い歴史的出来事なんです。しかもその期間、なんと約770年!いったいなぜそんなに長引いたのでしょう?また、どんな人々が関わり、どんなドラマが生まれたのでしょうか?この記事では「レコンキスタって一体なに?」という基本の疑問から、その背景、意義まで、ざっくりと、でもしっかりと解説していきますよ!
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まずは「レコンキスタ」とはどういう出来事なのか、基本的なところから押さえていきましょう。
「レコンキスタ(Reconquista)」というのは、もともと「再征服」という意味のスペイン語です。じゃあ、何を「再征服」するのか?それは、711年からイベリア半島を支配していたイスラム勢力から「キリスト教徒の土地」を取り戻すことだったのです。この動きは722年のコバドンガの戦いから始まり、1492年にグラナダ王国が陥落するまで続きました。つまり、「イスラム教徒が支配していた土地を、キリスト教徒が取り戻していく長い過程」を表す言葉なのです。
レコンキスタは単なる「戦争」ではありません。宗教的な意味合いがとても強いのが特徴です。キリスト教徒たちにとっては、イスラム教徒に奪われた土地を「神の名のもとに」取り返すという使命でもありました。つまり、政治的な目的と宗教的な使命が一体化していたわけですね。そのため、戦いが進むにつれて「聖戦(ジハード)」のような意味合いを持つようになったのです。
「え、そんなに長かったの?」と驚かれるかもしれませんが、レコンキスタはなんと約770年間も続きました。途中でイスラム勢力と同盟を結んだり、キリスト教徒同士で争ったりと、複雑な事情が重なって、こんなにも長い時間がかかったのですね。だから単純に「イスラム vs キリスト教」という図式だけでは語りきれない、奥深い歴史なのです。
じゃあ、どうしてイベリア半島はイスラム勢力のものになっていたのでしょう?レコンキスタの背景を知ると、この運動がなぜ生まれたのかがよく分かりますよ。
まず最初のきっかけはウマイヤ朝(661-750)の侵攻です。711年、北アフリカからムーア人(イスラム教徒の一派)がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に攻め込み、たった数年で広大な領土を支配下に収めたのです。この時からアンダルスと呼ばれるイスラム支配地域が生まれました。
しかし、すべてのキリスト教徒が追い払われたわけではありませんでした。とくに北部の山岳地帯に逃げ込んだ人々は、少しずつ勢力を立て直していきました。その中心となったのがアストゥリアス王国です。この小さな王国が、やがて巨大なレコンキスタ運動の火種となっていくわけですね。
なお、イスラムとキリスト教の関係は単なる敵対関係だけではありませんでした。イスラム支配下でもキリスト教徒やユダヤ教徒が共存する時期もあり、文化や学問、建築などの分野で異文化交流も行われていたのです。でも、やはり「宗教の違い」が対立の火種になりやすく、その結果としてレコンキスタのような動きが強まったわけなのです。
さて、700年以上もかけて行われたレコンキスタには、どんな意味があったのでしょう?その意義についても見ていきましょう。
レコンキスタの過程でスペイン王国やポルトガル王国といった国が形作られていきました。つまり、今の「国」という形ができる大きなきっかけになったわけですね。
そして、イベリア半島がキリスト教世界に「戻った」ことで、ヨーロッパ全体におけるキリスト教圏が拡大しました。これにより、のちの「大航海時代」でのキリスト教布教活動にもつながっていくのです。
また、レコンキスタの舞台となった都市には、今もイスラム文化とキリスト教文化が融合した建築や芸術が残っています。たとえばアルハンブラ宮殿やコルドバのメスキータなどがその代表例ですね。
このように「レコンキスタ」は、単なる長い戦争ではなく、イベリア半島の宗教、文化、そして政治を大きく変えていった壮大な歴史だったわけです。今のスペインやポルトガルの姿があるのも、このレコンキスタがあったからこそ。なんだかんだで歴史って、私たちの今につながっているんですね。